コラム〜その後〜
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down the theme again.

メインテーマ・「一枚のはがき 2003/02/28」   を再び 2021/08/07
 近所のスナックとは「スナック・すみれ」。オイラが小学生の時(昭和49年頃かな?)、校 門前に雑居店舗が建て替えられ、「向学堂」という名物オヤジのいる文房具店があっ た。正面に向かってその左隣の端の店舗が牛乳販売店。牛乳屋なんか全く縁がなかっ たが、その牛乳屋が廃業して、スナック「すみれ」がオープンした。時は1984年、昭和で 言えば58年だ。
 その4年後。オイラは地元の信用組合に就職した。配属も我が家の近所の支店だっ た。4月1日の勤務初日、特に仕事が与えられる訳も無く、窓口の2列目の席にボーッと 座っていると、凄い剣幕で主人公が登場してきた。「多額の預金してるんだから、あんた 達タマにはウチに飲みに来ないと隣の郵便局に(預金を)移すからね」。そして、「近所の 子供が緊急手術で輸血が必要だから協力してよ!」とまくし立てた。大口預金者の苦情 に支店長も次長もオロオロするばかり。そして、「後藤君! A型の血液の持ち主なら行 ってきてまえ」。
 その登場人物こそ「すみれ」のママ。初対面だった。我が支店の周辺商店街で、同じよ うに集められた献血協力者達がママの運転する車に詰められ、北里大学病院に向かっ た。
 献血を終え、支店に帰ったのは窓口が既に閉まった夕方だった。金融機関に勤務初 日の忘れられない出来事だった。
 当時から酒は好きだが、一人では飲みに行けない(現・58歳じゃ、全くそんな事はない が)。そんな時に「すみれ」の常連客と我が支店の先輩がコンタクトを取って飲みに行っ てきた。「可愛い女の子が居る」って先輩はルンルン、その先輩と2人で初の「すみれ」訪 問のチャンスとなった。余談だが、そういう先輩が居るからこそ、今の自分はある。仕事 だけの上司・先輩など今となっては全く不要だ。人生いい事悪い事、いろいろ教わったな あ。
 小柄で瘠せて、目が大きくて、がママの印象。当時「マリちゃん」という娘を雇って、その 娘目当てに「すみれ」は大繁盛した。
 バブル時代は終って、「すみれ」はママひとりの体制に。客層もガラッと常連重視に変 わった。ボーリング大会、ゴルフ大会、クリスマス会は恒例の行事と化した。そして、10周 年の感謝パーティー。今は無き結婚式場の大和駅前「雅翔」の一間を貸切って常連客達 が招待された。メインテーマ・「一枚のはがき 2003/02/28」の中にも書かれたが、ザ・ハ ンダースの「鈴木末吉」が司会者で開催されたのだった。
 金融機関時代の親しい仲間とは「すみれ」によく行った。カラオケの音響はズバ抜けて 良かった。カラオケボックスには無い魅力の、居合わせる赤の他人に歌の披露・自慢が 出来る点が好きだった。狭い店内、カウンター越しのママが近くて、ママと二人きりになる 瞬間も好きだった。ママとは話が弾んだ。まあ、それが商売なのだろうから。
 ママがスナックを始めたのは旦那さんを亡くしてから。それまでは普通の主婦だったと いうから驚いたものだった。千葉に妹が居て、たまに店を手伝いに来た。ママに似て、目 がぱっちり大きく、小柄なママとは違ってスラッと長身、「中島みゆき」似だ。
 倒産によって仕事が変わったオイラは、新たな仕事場の仲間とも「すみれ」に顔を出し た。一人でも行った。我が金融機関勤務初日の思い出話は盛り上がった。「あの時のマ マはおっかなかったなあ」。その時の子供の緊急手術は、我が献血の甲斐も無く失敗に 終ったそうだ。また、ある時は大阪万博の話になった。当時に実際に行った、行かない の話になった事があった。次にオイラが来店する日なんか知るハズも無いのに、その日 の為に大阪万博でのスナップ写真を店に置いておいてくれた。スナップ写真のママは若 く、アイドル並みに可愛かった。我がオーストラリア留学期間も現地に手紙を送ってくれ た。「SPEEDの解散」や「サッチーミッチー騒動」の国内の話題をいち早く知らせてくれ た。当時は、まだまだインターネットやメールは普及していなかったから助かった。
 その後オイラは夜勤の仕事をし、「すみれ」に行く機会がめっきり減ってしまった。そん な折、閉店を告げる「一枚のハガキ」が届いたのだ。2003年2月28日の事である。我が 両HPである「今日のひとRiごと」と「ゴッチのホームページ」が開設された年である。我が 日記風コラム「今日のひとRiごと」によると、最期に「すみれ」に行った記述はないが、前 日と当日のコラムによると、2003年3月22に複数人で行った様である。この時、「閉店ま での一週間のうちにもう一回来る」とママに約束した記憶があるが、結果破る形となって しまった。
 その後ママは千葉に引っ越した。再会できる可能性は低まったが、年賀状の挨拶だけ は欠かさなかった。「すみれ」の看板は別のスナック名に変わり、その灯った看板を見る 度にママの事を思い出した。そして、思わずその灯りに吸い込まれてしまった。2017年7 月29日、仕事場の仲間と飲んだ帰りに、一人で立ち入ってみた。黒を基調としたカウンタ ーはそのままだった。マスターとママは我が両親程の御高齢。カラオケ機器も「すみれ」 のままで、歌いやすかった。それだって、もう4年半前の話だ。
 「すみれ」が消えて、我がHPが誕生して18年半。「すみれ」の後店にもう一度行って、そ のレポートでもママに送ろうかな? そんな事を考える矢先にまた「一枚のハガキ」が千 葉から届いた。
 死んでしまったら・・・・もう、何も出来ないではないか。後悔だった。後悔ばかりだ。「最 期にもう一回一人でスミレに行くよ」って約束したのに。「スミレの後は今はこうなってる よ!」ってレポートしたかったのに。





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